優秀な人材は引く手あまたな時代になりました。会社も、費用を出して人材を育成することに力を注いでいます。

会社としては、せっかく費用を投じて育成した人材が辞めてしまうとその費用がムダになってしまいかねません。
このような考え方から、会社が費用を支出して労働者が留学をしたり、他社のセミナーに参加したりした後に自己都合退職する場合にはその費用を返還するという合意は多くの会社で行われているところです。

他方で従業員側としても、会社から費用を返せと言われると、事実上会社に拘束されてしまうことにもなりかねません。

そこで、このように会社が支出した費用をその後退職した労働者に支払いを求めるという合意の有効性が争われた近時の裁判例をご紹介します。

労働基準法では、ある労働義務の不履行について、労働者の損害賠償の予定を禁止しています(労働基準法16条)。これは、会社側(使用者)と労働者に交渉力格差がある労働契約において、軽微な義務の不履行に過大な賠償額が予定されたり、契約期間の中途で労働者が退職する場合に多額の違約金が定められ、労働者に過大な負担を強いられていたという経緯から規定されました。

労働基準法16条

使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。

留学費用等の返還を求める合意が、労働基準法16条に違反するかという解釈問題です。

みずほ証券事件(東京地方裁判所令和3年2月10日判決)

これは、みずほ証券株式会社に勤務していた従業員が会社の公募留学制度を使って約2年間海外の大学に留学した後、業務復帰後4ヶ月で自己都合退職したため、会社から留学費用約3045万円を請求されたという事案です。留学前には誓約書により、留学終了後5年以内に自己都合退職した場合には留学費用のすべてを返還するという合意がされていました。

この事案について、被告である従業員は、留学費用の返還という合意が労働基準法16条に違反するため無効であるとの主張をしましたが、東京地方裁判所は、この留学制度が留学先やプログラム等をはじめその大部分の決定を被告従業員に委ねられたもので、原告会社の業務性を有するものではないことを理由にこれを認めませんでした。

 

ダイレックス事件(長崎地方裁判所令和3年2月26日判決)

これは、日用品を扱うディスカウントストア(ダイレックス)に勤務していた従業員が親会社のセミナーに参加するにあたり、会社の費用をもってその参加費や宿泊費等を支出していたため退職する際にその返還を求められた事案です。セミナー参加費等の支出にあたり、セミナー受講後2年以内に自己都合退職する場合にはその費用を返還するという合意がされていました。

 この事案について、被告従業員は労働基準法16条違反の主張をしたところ、このセミナーの内容が会社で販売する商品の説明が主なものであり、業務との関連性が認められ、その受講料は本来的に会社が負担するべきもの等の理由から被告の主張が認められました。

 

まとめ

以上の2つの裁判例は会社の費用をもって行ったことが業務性の高いものかという観点から結論が分かれました。

みずほ証券事件では留学は従業員のためのもの、ダイレックス事件ではセミナーは会社のためのもの、という要素が強いと判断された結果です。

労働基準法16条違反の問題においては、業務性の程度が最も重視されていますが、労働者保護の見地から定められた規定であることからすると、留学やセミナー等への従業員の自主性や返還基準の合理性も重要な考慮要素になります。ただし、この問題はこれまでに多くの裁判例があり、個々の会社での個々の合意について、一概に有効か無効かの結論は出すのは容易ではありません。

(弁護士 米玉利大樹)

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