世の中には、最後に自分がパンチを打たないと気が済まない人がいます。
黙っていることは負けることと同じ意味だと捉え、負けることをどうしても認めたくないという人がいます。

まさか、学生の会見の翌日に突然日大サイドが会見をやるとは思ってませんでした。

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その意味で、2018年5月23日に行われた日本大学アメリカンフットボール部前監督とコーチ(日大サイド)の会見を興味津々で見ていたのですが、ああこの人たちは殴られっぱなしなのが耐えられなかっただけなんだな、最後にパンチを打っておきたかっただけなんだなという感想を抱きました。

会見は目的が重要

会見をするのは目的がなくてはなりません。

そしてその目的とは、世論を味方に付ける(ないしは敵に回さない)というものでなくてはなりません。

ときどき、自分の主張の正当性を訴えるために会見をする人がいますが、趣旨をはき違えています。

パワーがない人のパワハラが観念できないなどと仏頂面で言い放ったり、よく分からない理屈を号泣して訴えてみたりしても、「ああそうですね」などと納得してくれたりはしないのです。
そうした正当性を認めてもらう舞台は会見ではありません。

5月22日の学生の会見は、被害者側への謝罪と事実関係の真摯な説明という目的がしっかりしており、かつ、世論を味方に付けるに十分すぎるほどの効果がありました。
あくまでも実行者としての自分の責任から逃げることなく謝罪をしつつ、謝罪に不可欠である真摯な事実関係の説明をわかりやすく説明されました。
日大サイドへの責任転嫁をあおるような記者の挑発にも乗らず、知っていること知らないこと、指示されたことされていないこと、をキチンと整理して述べる姿には、同情すら集めたかもしれません。

それに反して、23日の日大サイドの会見は、なんのための会見だったのかさっぱり分からない。

冒頭で、前監督とコーチが順番にほとんど同じ言葉で謝罪の文言(コーチの「申し訳ございませんでしたっ」という大声の謝罪は体育会系的な条件反射なんだろうな。いやぁな気分になりました。)を述べてはいるものの、それだけ。

学生の言い分が違うということを言いたいのかと思えば、違わないという。後に述べる進行のまずさもあって、そもそも、日大サイドの想定している事実関係がさっぱり明らかになりませんでした。

世論を味方につけるどころか、さらに敵に回してしまいました。

無理のない進行を

今回の会見では、冒頭で、上記の通りの通り一遍の謝罪のあと、突然質疑応答が始まる一方、記者の質問は原則1人1問に限定されていたようです。

通常は、(学生が陳述書を朗読したように)監督やコーチの認識や意見について一通りのコメント等があって、初めてそれに対する質疑応答になるべきところ、こうした前提がないままの質問であれば、1問で聞けるはずがありません。

案の定、大半の記者が前提を確認するだけで数問使ってしまい、居丈高な司会から制止されてケンカになる。こんな質疑、我々弁護士でも無理です。

前監督とコーチが同席?

また今回の会見では、前監督とコーチが隣り合って同席し、一緒に会見を受けています。

大きな流れとしては、前監督は「自分は知らない」、コーチは「自分は言った。(ただし学生の受け取り方がマズかった)。」というスタンスで、基本的にはコーチに全部泥をかぶせる方向性だったかとおもいます。

コーチが答えに詰まると、前監督が脇から介入して答えるという場面もありました。

でも、このような状況で、コーチは前監督の意に沿わない回答ができますか?それこそ「やらないというのはないからな」と言われてるんじゃないですか?と勘ぐっちゃいますよね。

誰が出てくるか(出てこないか)という点も信用性という意味において極めて重要です。

会見のリスク

今回の会見では、なんとなんと司会者がクローズアップされる事態になりました。

他のメディアで散々取り上げられていますから、この司会者が「見てても見てなくてもどうでもいい」と言ったとか、「ブランドは落ちません」と言ったとかいうことはいちいち申しません。

しかし、私は現代型の会見における大きなリスクを看過してはいけないと思ってます。

それは「おもちゃにされるリスク」です。

人の関心はおそろしいもので、キャッチーな映像はいつまでも頭に残っています。マスコミにとって悪い意味で「画になる」映像を残してしまうと、それが繰り返し繰り返し放送されて、ネットで拡散し、意図しない不利益を被りかねません。

特に、お気づきかも知れませんが、昨今は犯罪が少なく、そんな中で起こった社会の耳目を集める事件を繰り返し繰り返し報道せざるを得ない状況です。

この件は、ワイドショーの「ニュース不足」「ネタ不足」を埋める格好な素材になっている側面を忘れてはいけません。

このように、成功編失敗編のコントラストを連日みることができたという話でした。