連日の夜なべ観戦で寝不足の川崎(じもと)の弁護士 伊藤諭 です。

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始まる前は意外と冷めていても,いざ始まってみると目が離せないのがオリンピックですね。

私の記憶に残っている一番最初のオリンピックがロサンゼルスですので,かれこれ20年も同じことを繰り返していることになります。

 

ジュリー問題

序盤戦の大注目はやっぱりお家芸ジュードーですが,今回のオリンピックでは競技そのものもさることながら,審判とジュリー(沢田研二ではないほう)の問題が脚光を浴びています。

ジュリー(Jury)とは,もともと陪審員を指す英語で,ジュードーにおいては主審や副審のほかに置かれる審判委員を指すようです。

ジュリー制度導入の背景には,記憶に新しい2000年のシドニー五輪における世紀の誤審といわれる篠原信一選手(現男子日本代表監督)とフランスのドゥイエ選手の決勝戦があったそうです。私もライブでこの試合を見ていて声を上げたひとりです。

ですので,試合を決するような場面でビデオ判定を導入すること自体は望ましい方向性と考えています。

しかし,このオリンピックにおけるジュリー制度は,主審・副審の一挙手一投足まで管理しているようで,審判はこのジュリーたちの顔色をうかがいながらジャッジしているようにみえてなりません。

主審・副審もジュリーの顔色をうかがってるものだから,しょっちゅう試合が止まるし,些細なジャッジもしょっちゅうひっくり返る。その都度興ざめするし,選手がいちばん気勢をそがれてしまいます。

ここでの問題は,ジュリーの権限が強すぎて,試合の途中で審判に口を挟むことができてしまうことではないのでしょうか。

(自分の土俵に議論を引っ張り込みますが)第1審の裁判に,高裁の裁判官が脇に座っていて,1審裁判官の訴訟進行に口を挟んで,場合によっては判決をひっくり返せという指示をしているようなものだと思います。

では,どうしたらいいか。

試合の進行については主審副審に絶対的な権限を認める。悪法だろうが,現場の審判が法だ,有効だろうが技ありだろうが,それは現場の判断を尊重する。
試合を決定づける場面(一本など)のみ,試合直後の選手の申立によってジュリーによる不服審査を認める。というのが私見です。

本来より合理的な結果を担保しようとするためのジュリー制度のはずですが,いちいちジュリーがジャッジをしていると,第1審判決にジュリー自身の判断が入るわけで,それに対する不服申立の制度が形ばかりになってしまいます。実質的に不服審査機関(ジュリーのジャッジをジャッジするジュリー)が機能しなくなって,かえって不合理な結論になっちゃいかねませんよ,というおはなしです。

このまま不合理な制度を続けると,ヘイ!ジュードーっていわれちゃいますよ。

 

 

 

 

バカなダジャレを言ってると,それがいいたいだけちがうかといわれちゃいますよ。